地元でみつけた〝文学的風景〟~散る梅の花~

どうも、とにかく本が好きな喜木凛(ききりん)です。
春の足音が聞こえ始める頃、ふと梅の香りが漂うのに気づきました。早春の訪れを告げるように、空気の中にほのかに漂う甘い香り。満開の梅を愛で、その姿を写真に収めながら、フォトエッセイを書こうと思っていたのですが……。
気がつけば、すでに梅は散りはじめていました。慌てて足を運んだ名所には、かすかに残る花の香りが漂い、地面には淡い花びらが静かに降り積もっています。春が足早に過ぎてゆくことを、そっと教えてくれるかのようでした。
ということで、地元でみつけた”文学的風景”をご紹介していくフォトエッセイを書いてみました。noteでも同じ内容をメンバーシップ限定で公開しています。
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文学に見る「梅」
梅の花は、古くから文学の中で美しくも儚いものとして描かれてきました。梅が日本の文献に登場したのは、奈良時代のこと。梅は外来種なのですね。その証拠に『古事記』・『日本書紀』に梅は描かれていません。中国の漢詩文などの影響を多く受けつつ、梅の花は和歌などに取り上げられるようになり、古典文学によく見られる題材となっていきます。
『万葉集』の梅
奈良時代の歌集『万葉集』に収められた梅の歌は約120首で、花木としては萩に次いで2番目の多さだそうです。1位が桜でないことに、私は驚いたのですが、山桜が野生であるのに対して、梅は人間の手によって栽培されていました。そのためか『万葉集』において、梅は桜の3倍も歌に詠まれています。そのうちの32首は、天平2(730)年1月13日に大宰府の長官だった大伴旅人の邸宅で催された、いわゆる「梅花の宴」で詠まれました。『万葉集』に記録された「梅花の宴」の32首には序文があり、「初春令月気淑風和」の箇所が元号「令和」の出典となったことでも知られています。
『古今和歌集』『新古今和歌集』の梅の歌
平安時代の『古今和歌集』、鎌倉初期の『新古今和歌集』には梅の香りを詠んだ和歌が複数みられ、梅がその香りによっても愛されたことが分かります。
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香に匂ひける
紀貫之の歌には「花」とだけあって、一見すると何の花かわかりません。桜は「匂ふ」であって、「香に匂ふ」とは言わないそうです。要するに視覚の場合は「匂ふ」で、嗅覚の場合は「香に匂ふ」と使い分けられているのです。紀貫之が昔は初瀬の長谷寺へお参りに行くたびに泊まっていた宿にしばらく行かなくなっていて、何年も後に訪れてみたら、宿の主人が「このように確かに、お宿は昔のままでございますというのに」(あなたは心変わりされて、ずいぶんおいでにならなかったですね)と言ったのに対して、その辺りの梅の枝をひとさし折ってこの歌を詠んだそうです。
「あなたの方はどうだったんです? ちゃんとずっと覚えていていただいてたんでしょうかね。昔よく訪れたこの里は、昔ながらに梅の良い香りを漂わせていますのに。」ということですね。小粋な切り返しだと思います。もちろん宿の主人が女性で、遠い昔の恋愛を暗示しているのかもしれません。
『枕草子』の中の梅
『枕草子』では着物の「かさね」の色目のひとつ「紅梅」に触れ、季節外れになった「三四月の紅梅のきぬ」を「すさまじきもの(興ざめなもの)」のひとつにあげています。
すさまじきもの昼ほゆる犬。春の網代。三四月の紅梅の衣(きぬ)。牛死にたる牛飼ひ。ちご亡くなりたる産屋。火起こさぬ炭櫃、地火炉(じかろ)。博士のうち続き女子(をんなご)生ませたる。方違へに行きたるに、あるじせぬ所。まいて節分などは、いとすさまじ。
現代語の「すさまじい」というのは、「おそろしい」や「ものすごい」を指しますが、ここの「すさまじ」は、不調和からおこる興ざめな感じを言います。時がずれていたり、外形だけあって中身がなかったり、期待はずれだったりして、しらけておもしろくない感じなのです。清少納言は機知をはたらかせて、楽しいクイズ風に連ねていますね。